怠惰なヒト科ブログなるもの始めり

オタクが好き勝手騒ぐブログです。

年末ですね

 

こんばんは。

気がついたらもう年末どころか1年の最終日、大晦日でした。

すぐに更新するつもりだったんですけどね〜、仕事と生活で手一杯で更新が出来ませんで。

ちなみに昨日冷蔵庫が壊れ、冷凍していたはずのアイスが溶けており啜りながら食べました。

一昨日くらいから異音を発してはいたのでたぶんその頃から冷えてなかったんですよね。

しかし一縷の望みをかけて、もう開けなければこれ以上冷気も逃げないし一晩ならいけるか?と思い冷凍していた野菜たちの調理を先延ばししたんですが(シンプルに面倒くさかったので)、朝には冷凍していた野菜たちも息を引き取っており今日の大掃除は冷蔵庫のコンセントを抜くところから始まりました。

 

こんな間が悪いことある??

今月頭にはエアコンが不調で凍えながら起きてたし、年末年始の業者さんが来てくれない時に冷蔵庫が壊れるって。そんな馬鹿な。

 

そして昨日は実家に荷物の最終引き上げをしに行ってきました。

厚手のコートとワイヤレスイヤホンの充電コードを忘れていたので……。

 

他にもピアスだったり服だったりサンダルなんかも最悪なくてもいいや、と置いていっていたので回収して帰ってきました。

実家に着いた時、兄と弟だけで母は仕事に行っていたのですが、荷物の回収中に急に部屋のドアが開いて兄が頭の上半分だけ覗かせてこっちを見ていた時は気持ち悪くて仕方なかったです。普通に一言声掛けられねぇのかよ。

 

もう帰ってくることはないな、と思ったので今までお世話になりましたと書き置きをして実家の鍵をポストに入れ、我が城レオパレスに帰ってきました。

かなり爆走で荷物回収してたぶん1時間もいなかったのかな?くらいの速さで実家を出たので母とは顔を合わせることはありませんでした。

 

そして帰りの電車の中で、こっそり泣きました。

 

色んなことがあったし、色んなことをされて結果として自律神経がおかしくなって、実家を出る2ヶ月前くらいからは微熱が続いて下がらなかったりずっと喉が痛かったり、その他にも抜毛が酷かったとか度々お腹の調子が悪いとか、そもそも夜ろくに眠れていないしずっとイライラしていてピリピリした状態でいたので本当にしんどかった。

でも、母親のことは今でもかわいそうな人だと思っているんですね。

だから見捨てることに罪悪感があるというか、そもそも母親としては本当に嫌いだし恨んでいるし、許せないんですけど。

でも、人としてまで嫌いとは言えないんですよね。絶対にやり方も考え方も良くなかったとしても本人としては何とかしようと思ってやったこともあったし、つい辛くなって逃げたんだろうなとも思うので、別に全てにおいて何も頑張っていなかったわけではなくて。

ただ、環境も周りの人間もそれと関わって生きていくにはあの人はあまりにも合わなかったんだろうなと思います。

ずる賢さも賢さも、勤勉さも要領の良さも足りなかったし、愛嬌とか情とかそういうものだけで幸せになったり報われたりするほど優しい環境ではなかった。

 

そうやって、母のことを哀れんでいるから私はまだ母の連絡先を消すことも着信拒否することも出来ずにいます。

 

LINEが来てその内容にイライラするのも、電話がかかってきて面倒に思うのも、分かりきっているのに。

 

何時になったら、消せるのかなぁ。

 

色んなことが落ち着いたらその時には消したいと、そう思います。

 

今はまだ来年もこの生活を続けて少しずつでも状況を良くしていけるように、そのことだけに目を向けていきます。

 

今年もお世話になりました。

来年も続けていくつもりなのでよろしくお願いします。

 

それでは、よいお年を。

母親について

 

うちの母親は、かわいそうだなと思った。

 

一緒に住んでいたいかと言われたら絶対に嫌だし、好きだったかと言われると複雑なので一言では答えられないけれど。

子供が出来てしまったからと結婚した相手が、付き合っている間は博識で優しくて経済力もあったのに結婚した途端に暴力も浮気も借金もして、田舎の跡継ぎ長男だからと同居してみれば姑からは同じ食卓につかせない等の徹底した嫁いびりをされ、子供が生まれても逃げ出せずにいたのだから。

 

それでも同情できないのは、一度息子(私にとっての兄)を連れて逃げ出そうとしたのに周りに「1ヶ月分の給料は貯めてからのほうがいい」と言われたからと、やめてしまったからだ。

その時、母親は家の仕事の手伝いと家事育児をしていた。仕事の手伝いと言ってもちゃんと資格の必要な仕事だからと講習も受けていた。だからたぶん、周りの人は流石にきちんと給料が出ていると思っていたのだろう。実際は給料は渡されず、経理的な面は祖母が見ていて金を貯めるなんてこと、出来なかったのに。

 

私が母のことを嫌いなのは、そういった自分で決めたことを事情もよく知らない人に言われた言葉で変えてしまうところなのだろうか。

自分で考えずに、貰えてもいない給料をどうやって1ヶ月分も貯めるのかなんて、他人に聞いたところで実際に有効な方法が分かる可能性もひくいだろうに。

 

母は、他力本願な人間だった。

私が産まれて2歳の頃、夜泣いていてうるさいからと怒った父に口にタオルを詰め込まれ、左の口の端が裂けてそのまま放置されたことがあった。祖母も母親も助けに来た記憶もなく、病院に連れられた記憶もなく、今も確かに私の口の端は左の方が数ミリ程度長く、端は白い。

 

そんなことがあったのに、私が4歳の頃には弟が産まれている。

 

昔一度だけ、何故生まれてきても暴力を振るわれることが分かっていたのに弟まで産んだのかと母に聞いたことがあった。

母は「子供が産まれたら変わると思っていた」と言った。

もう既に2人も産んでいるのに。それでも変わることなく借金は増え、浮気もやめず、暴力も振るう人間なのに。祖母だってそうだ。跡取りの長男も、自分が産みたくても産まれなかった女の子を産んで、もう望まれることは応えきっているのに。それでも祖母は母に嫌味や悪口を言い続けていたし、扱いも変わっていなかった。

なのに、何故?

何がどう変わると思ったのか。

そして何故大人である自分が、周りが、変えられなかった環境を産まれてくる何も出来ない何の力も持っていない赤子に変えられると期待するのか。

 

動くべきは自分なんじゃないのか?

 

 

実家の人間たちは、皆自分で問題を解決しようという感覚がなかった。他責思考だった。

事故で腕があまり上がらなくなり、手術の際に医療ミスもあり坐骨神経痛を患ったからと言って傷病手当の手続きも後遺症の申請も全てを母に丸投げして、進んでいないと怒鳴り散らし、リハビリやそれでも就ける仕事を探すでもなくそのまま無職になった兄も、

教えられたことがないから出来ない、自分はしてもらったことがないからやらないと言って自力で調べて出来るようになろうとしない弟も、

全員、他人任せで、他責思考で、それが気持ち悪くて仕方なかったのかもしれない。

 

自分でやればいいのに。

ずっとそう思いながら過ごしていた。

 

あの人たちは、どうやってこの先生きていくのだろう。

 

きっと全員、このままではエンジンの働かなくなった飛行機みたいにこの家は墜落していくだけだ、なんて気がついていない。

 

50代半ばの非正規雇用と無職と障害者枠雇用で、きっと今月も家賃も電気代もガス代もろくに払えない生活を送っている。それどころか、水道代さえ払えているのか怪しいのだ。

 

気がつかないことは幸せなのだろうか、

 

気がついてしまって、見えてしまっていたから私はあの家では不幸で憂鬱で毎日が苦しかったのだろうか。

 

あの家は、どうなるのだろうか。

 

 

私には、もう関係ないけれど。

 

お久しぶりです

 

いやぁ、お久しぶりです。

生きてます。

まぁ、なぜこんなに久しぶりなんだい?と言われますとね、書くことないな〜の期間を経て存在を忘れ……っていうよくある流れなんですけども

それと同時にですね、実家の環境がまぁどんどん悪化しまして。

今もまだ改善はされておらず悪化の一途なんですけれども。

私は私でもうね、ちょっと、あまりにも話が通じない人間が多すぎるとそういうことで、住み込みの仕事を探して家を出まして。

なんと本日引越してきました。

寮付きの仕事ってやっぱきついだろうな~とは思いつつ、寮ってレオパレスなんだっていう驚きとか、レオパレス意外と静かだな?とか、いや全然隣なのかその隣なのか分からない物音は今もね、聞こえていますけども。

 

断然実家の方がうるさかった。

なんせ、奴ら深夜1時過ぎに洗濯機を回しそのまま寝落ちて干さず、昼夜を問わず(本当に日付変わってからとか関係なく)掃除機をかける奴はおり、平日の深夜までゲームとVCをしてゲラゲラと騒ぐのでね。無理です。

あと使ったあと電気もガスも消さねぇのはどういうこった。しばくぞ。そのくせチマチマその消し忘れも含め消している私に電気代を請求するな。

 

1人は無職で携帯が1ヶ月前から止まってると怒鳴り散らし、1人は土木仕事をして帰ってきているんだと金切り声を上げ、もう1人はまるで駅で見かける挙動不審な人間かのように常に大きな声でグチグチと不平不満のみを垂れ流し続け……

そんな物の怪共といた結果ストレスで自律神経をやったらしく、髪は抜けるわ微熱は下がらんわずっとイライラしてて夜も眠れんわで本当におかしくなっていましたが、これからはそれらから解放されるということで。

 

とても晴れやかな気持ちと新天地の寒さに驚いている、そんな夜でございます。

なんでだ、南に下ったはずなのに。

 

 

それでは、またお会いしましょう

アデュー!

 

P.S.

新天地は飲めない人間に向いていない居酒屋ばっかりの街だったのでもしかしたら次回更新までに染まって酒に溺れながら更新するかもしれません。

 

 

風立ちぬ、いざ生きめやも。

 

 ちなみにタイトルの生きめやもの部分は堀辰雄の誤訳で、原文の「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」を正しく訳すと「風が立った、生きねばならない」という感じになるそうです。だから映画でのコピーが「生きねば。」なんですね。

 生きめやもだと「生きようか、いやどうして生きられようか」みたいな感じです。あの、なんか反語なのでそういうことなんだなぁ、って認識してもらえたら。

 

 ジブリの「風立ちぬ」が、めちゃくちゃ好きです。この前金曜ロードショーでやってましたよね。あれです、あれ。

 

 いや、あのね、分かるよ。分かる。好き嫌い分かれるよね。知ってる。嫌というほどに。

 

 でも、あの話って例えると贅沢を極めすぎておもてなしの場で出されたものがめちゃくちゃに美味しい水一杯だけだったみたいな話だと思うんですよ。

 

 

 語らせてください。

 

 

 あの映画はね、美しいところしか写していないんです。徹底して。

 本当にすごいと思う。作中で菜穂子が山へ帰った時に黒川夫人が「好きな人に自分の美しいところだけを見てもらいたかったのね」って言うんです。

 この映画も、本当に徹底して二郎の人生の美しかったところしか描いてないの。

 

 よく考えてみてください。

 ジブリですよ? あの、火垂るの墓を出したジブリ

 同じ第二次世界大戦の、もう終盤の、全く同じ時代を描いてるのに受ける印象、めちゃくちゃ違いませんか? いや、まぁ、監督は違うんですけども。

 でも、本当に描くテーマが違うだけで同じ時代をここまで印象が違うものに仕立て上げたその手腕すごくないですか???

 

 で、ですよ。どうして徹底して二郎の人生の美しかったところしか描いてないって言い切ったかと言うと、これも作中にあるんですが「君の10年はどうだ」ってカプローニさんから二郎が言われてるの、覚えてますか?

 カプローニさんが創造的人生は10年だっていうようなことを言っているんです。

 

 んで、二郎が入社5年目で設計主任に抜擢されたの、あれが大体史実だと1932年頃なんですけど、零戦の初陣が1941年って言われているんですね。まじで、本当にこのカプローニさんの台詞にキッチリ綺麗に詰まってるんです。本当に。綺麗。

 

 二郎の美しい夢であった飛行機と二郎の人生の美しかった部分だけめちゃくちゃ濃縮されてるんですよ。

 しかも本当に、美しさにこだわりにこだわってて、二郎が綺麗だって言ってた鯖の骨あるじゃないですか。あれ、上記の入社5年で設計主任に抜擢された件の試作機がテスト飛行中に墜落して軽井沢に行ったあと、菜穂子と心通わせて元気を取り戻して紙飛行機飛ばしているシーンでの美しい軌道で飛ぶところ、本当に鯖の骨を倣ったような軌道で、すごく綺麗なんですよ。

 

 

 つまり、何がいいたいかっていうと、風立ちぬはガチガチに美しさに固執した映画です。

 

 対比としてまた火垂るの墓を出すんですけど、火垂るの墓はただただ清太の体験を追っているから何を表現したいかっていう路線ではないんですよね。わざとらしさがなくて。だからこそめちゃくちゃメンタルにくるんですけど。

 でもって、風立ちぬは別に何を追っているっていう話ではないんですよ。別にどうして二郎が飛行機にのめり込んだとか言う飛行機の話でもなければ、避暑地での菜穂子との出会いが二郎にどういう影響を与えて二人はどうであったとか言う恋愛の話でもない。ただただ、二郎の人生の、創造的人生であった零戦を作るに至った経緯とその後でしかないんです。

 めちゃくちゃ贅沢じゃないですか? 本当に、美味しいけどそれだけの水。お腹は満たされないんですよ。正直言って。それだったら、全然火垂るの墓の、ご飯とお味噌汁と漬物だけみたいな、質素だけどなつかしさのある食事の方が断然お腹は満たされるし、それによる満足感もあるんです。

 本当に、めちゃくちゃ贅沢な娯楽だと思います。美しかったところだけを、美しさを追求して描いた作品です。

 

 

 ここまで書いてたらもう一度見返したくなってきたので、今日はここまでにしておきます。

 もし、気が向いたら見てみてください。

ストーリーに面白みは、正直ないかもしれません。でも、映画で重要視されるストーリーという主軸を捨ててまで徹した美しさを、どうか、よろしくお願いいたします。

 

 

久しぶりの

 

 こんばんは。

 昔、10時までが「おはよう」で、10〜16時は「こんにちは」16時〜は「こんばんは」だと聞いてから、それ通りの挨拶じゃないともぞもぞするように育ちました。一定の指標があるのはいいけど融通が効かないのは別に美点でもなんでもないゾ!お元気でしたか?私はこの通りです。

 

 久しぶりにですね、読書をしました。読書と言っても小説です。普通の。

 暫くなんでか集中が出来なくてですね、読書断食をしてたんです。ちゃんと読書したの、最後からもう4年くらい経ってるかもしれない。

 断食って言ってもただ気が進まないから読まないだけだったし、そもそも読書とかいう能動的なことは癖でもない限りやろうと思わないとやらなかったのでただゲームに熱中してたっていうのが正しいんですけども。

 なんて言うか、本を読んでた時の人間性とゲームにだだハマりしてた時の人間性って大分違うなって感覚になりまして。

 本を読んでる時って、言葉が複雑で難しいものを使いがちにもなるけどその分ちゃんと脳を使っていたなぁと思ったと言うか。ゲームしかしてなかった時って、私本当に何にも頭使わずにいたんだなぁって思いました。どんどん脳が退化していく感覚がハッキリあるんですね。めちゃくちゃ頭回んない感覚がずっとありました。

 で、なんで読書断食辞めたかと言うと、まぁただ純粋に本が読みたくなったからなんですけども。

 なんか無性にどっぷりハマりたい!集中したい!読書したい!ってなったんですね。

 

 でと1つ問題があって、私読書辞めてた間に一人暮らししてた時に買ったお気に入りの180cmある本棚にあった本は、既読未読問わなずに全てをブックオフ!してまして。読む本がなかったんですよね。読んでないのに売り払ったハードカバーとか今考えたら惜しいなぁって思いました。まぁたぶん今手元にあっても読んでなかったと思うんですけど。

 じゃあ180cmの本棚には何があるんだってなると、まぁ、観葉植物と雑貨品と空気が押し込められています。

 そりゃそうよ、でかいもん。空間が出来るに決まってるわ。

 

 と、言うことでですね。どうせ読書断食辞めるのならば、ついでにこの本をこれから読んだ本で埋めていこうじゃないか!と。思い立ちまして。

 昨日家の近くの本屋で1時間くらいかけて1冊買ってきました。本屋で1日潰せるタイプの人間です、よろしくゥ!

 「その日、朱音は空を飛んだ」っていう小説です。

 タイトルの通り朱音って子が自殺した話を群像劇風に追っていく話なんですが、まぁすごい。読めば読むほど朱音に対する同情が薄れていくんですよね。そんなのアリ???

 今まで読んだことある高校生が自殺したというか内容の本って、読めば読むほど思い詰めた背景のどの視点にも納得がいってわりと泣いたんですけど。

 この本は読めば読むほど朱音に対する同情が消えていって。え?ってなる。なんなら朱音のその考えはちょっと好きになれないな……ってところも出てくる。

 あと、中澤は本当に絶対そういう字書くわって思いました。あ、これは章毎にある生徒の名前とアンケートへの回答を再現?した者への感想なんですけども。

 いや、中澤はぜってぇその字書くわ。だって中澤だもん。その字を書くかむしろ字がめちゃくちゃ下手かの2択だわ。中澤の解像度が高すぎる。これが高画質。

 あと細江の字が何回見ても昔流行った某携帯小説の題字のフォントと一緒。恋♡空だね。懐かしい。

 

 めちゃくちゃに登場人物の手書き文字再現についてで語れそうです。手書きの字好きなんですよね。その人のキャラが出る気がして。あとは単に字フェチなだけです。字フェチってなに???

 

 読んだ感想をまとめます。

 最初に思ったのは、私の中では「死」って結構大きなエネルギーというか、エネルギーはエネルギーでもマイナスのエネルギーなんですけど。それに向かって行動するのにもそれに向き合って行動するのも、勿論それから逃げるように行動するのもとにかく消耗するイメージで。

 とにかく大きな存在だからこそ、人は畏怖してそれの前に素直で嘘偽りなく潔白な姿勢であるものだと思っていたんですね。

 だから、正直朱音の遺書を読んだ時にすごい衝撃で、ゾッとして。

 あ、私この子とは分かり合えないなって思って。

 私の中では逆らっていけない「死」を堂々と容易く手軽な扱いをしてる感じがして。一気に嫌になりました。

 でも、その「死」を目の前にした直前も直前、死にたくないとか怖いとか、恐れを見せていて。

 

 全く関係ないんですが、何故か「恐れを」と入れたら「入谷の鬼子母神」と予測変換に出てきました。なんだお前。

 

 話を戻すと、むしろリアルだなぁ、って思って。って言うのも、よくネットの深淵を覗けばわりと簡単に朱音みたいに自傷癖がついてる人ってわんさかいると思うんですけど、そういう人たちって死の存在が距離感おかしくなってるなって思っていて。

 普通だったら、まぁ簡単に近寄らないし近寄りたくないと思うんですよ、近所の厄介な住人みたいな。

 それがその人たちは近寄っていくスリルに慣れてるから、どうしても気軽になってて、厄介に巻き込まれそうになることに慣れてるから近寄るのもなんとも思わないというか。

 厄介に巻き込まれそうだけど、まぁ今までそんなに酷く巻き込まれたことないし今回もなんとかなるでしょって近寄っちゃう。みたいな。

 

 それで、まぁあんまり文章にするのもいかがかなとは思うけど、慣れでつい近寄って、うっかり近寄りすぎて、それで死んでしまうことがあるって言うイメージがあって。

 

 で、そういう人たちもいつもの通りに切ったつもりで。切れば切るほど痛みが鈍くなるというか。繰り返すうちに感覚って麻痺するので。

 うっかり今までになく深く切っちゃって、それで死ぬ直前だってなったらパニックになって「死にたくない」って言うって聞いたことがあるんですね。

 

 それを踏まえて考えると、地面に叩きつけられる直前になって現実をハッキリ直視した朱音が、自分の状況に気がついてから漸く「死にたくない」ってなったのは、感覚の麻痺だったのかな。と。

 

 あとは、まだ読んだ内容を振り返り切れてないんですけど、話の中で嘘か本当か分からないとしても同級生に“同性同士で付き合っている”というようなことを言われた時の反応が、すごく時代の変化を感じました。

 私が高校生の時に読んだ小説の中に、一人息子だけど同性愛者で彼氏がいることをカミングアウトするという内容の本がありまして。

 その当時はそういったことを周りに言うことすら1冊のテーマになるようなことだったのに、今はこんなにもあっさりとそういう話が出てくるんだなと。

 平時の思考の中では同性での可能性が排除されてはいるけど、唐突にそういった“身近な同性愛”の情報が入ってきてもこんなにも字が割かれなくなったんだなとちょっと感心しました。

 これはたぶん作者の感性によるとも思うんですけど。

 

 

 他にもちょこちょこまとまらない考えは色々あるんですが、まとまらないのでやめておきます。

 

 久しぶりに小説を読んだら、なんだか色々な発見と感心と考えの違いがあってワクワクしました。

 あと、久しぶりに5時間ほど物事に没頭したので自分の集中力にびっくりしました。

 とりあえず、言いたいことがあったとしたら、私はたぶん物事をハッキリ言うギャルがめちゃくちゃに好きです。

 以上、ありがとうございました。