怠惰なヒト科ブログなるもの始めり

オタクが好き勝手騒ぐブログです。

久しぶりの

 

 こんばんは。

 昔、10時までが「おはよう」で、10〜16時は「こんにちは」16時〜は「こんばんは」だと聞いてから、それ通りの挨拶じゃないともぞもぞするように育ちました。一定の指標があるのはいいけど融通が効かないのは別に美点でもなんでもないゾ!お元気でしたか?私はこの通りです。

 

 久しぶりにですね、読書をしました。読書と言っても小説です。普通の。

 暫くなんでか集中が出来なくてですね、読書断食をしてたんです。ちゃんと読書したの、最後からもう4年くらい経ってるかもしれない。

 断食って言ってもただ気が進まないから読まないだけだったし、そもそも読書とかいう能動的なことは癖でもない限りやろうと思わないとやらなかったのでただゲームに熱中してたっていうのが正しいんですけども。

 なんて言うか、本を読んでた時の人間性とゲームにだだハマりしてた時の人間性って大分違うなって感覚になりまして。

 本を読んでる時って、言葉が複雑で難しいものを使いがちにもなるけどその分ちゃんと脳を使っていたなぁと思ったと言うか。ゲームしかしてなかった時って、私本当に何にも頭使わずにいたんだなぁって思いました。どんどん脳が退化していく感覚がハッキリあるんですね。めちゃくちゃ頭回んない感覚がずっとありました。

 で、なんで読書断食辞めたかと言うと、まぁただ純粋に本が読みたくなったからなんですけども。

 なんか無性にどっぷりハマりたい!集中したい!読書したい!ってなったんですね。

 

 でと1つ問題があって、私読書辞めてた間に一人暮らししてた時に買ったお気に入りの180cmある本棚にあった本は、既読未読問わなずに全てをブックオフ!してまして。読む本がなかったんですよね。読んでないのに売り払ったハードカバーとか今考えたら惜しいなぁって思いました。まぁたぶん今手元にあっても読んでなかったと思うんですけど。

 じゃあ180cmの本棚には何があるんだってなると、まぁ、観葉植物と雑貨品と空気が押し込められています。

 そりゃそうよ、でかいもん。空間が出来るに決まってるわ。

 

 と、言うことでですね。どうせ読書断食辞めるのならば、ついでにこの本をこれから読んだ本で埋めていこうじゃないか!と。思い立ちまして。

 昨日家の近くの本屋で1時間くらいかけて1冊買ってきました。本屋で1日潰せるタイプの人間です、よろしくゥ!

 「その日、朱音は空を飛んだ」っていう小説です。

 タイトルの通り朱音って子が自殺した話を群像劇風に追っていく話なんですが、まぁすごい。読めば読むほど朱音に対する同情が薄れていくんですよね。そんなのアリ???

 今まで読んだことある高校生が自殺したというか内容の本って、読めば読むほど思い詰めた背景のどの視点にも納得がいってわりと泣いたんですけど。

 この本は読めば読むほど朱音に対する同情が消えていって。え?ってなる。なんなら朱音のその考えはちょっと好きになれないな……ってところも出てくる。

 あと、中澤は本当に絶対そういう字書くわって思いました。あ、これは章毎にある生徒の名前とアンケートへの回答を再現?した者への感想なんですけども。

 いや、中澤はぜってぇその字書くわ。だって中澤だもん。その字を書くかむしろ字がめちゃくちゃ下手かの2択だわ。中澤の解像度が高すぎる。これが高画質。

 あと細江の字が何回見ても昔流行った某携帯小説の題字のフォントと一緒。恋♡空だね。懐かしい。

 

 めちゃくちゃに登場人物の手書き文字再現についてで語れそうです。手書きの字好きなんですよね。その人のキャラが出る気がして。あとは単に字フェチなだけです。字フェチってなに???

 

 読んだ感想をまとめます。

 最初に思ったのは、私の中では「死」って結構大きなエネルギーというか、エネルギーはエネルギーでもマイナスのエネルギーなんですけど。それに向かって行動するのにもそれに向き合って行動するのも、勿論それから逃げるように行動するのもとにかく消耗するイメージで。

 とにかく大きな存在だからこそ、人は畏怖してそれの前に素直で嘘偽りなく潔白な姿勢であるものだと思っていたんですね。

 だから、正直朱音の遺書を読んだ時にすごい衝撃で、ゾッとして。

 あ、私この子とは分かり合えないなって思って。

 私の中では逆らっていけない「死」を堂々と容易く手軽な扱いをしてる感じがして。一気に嫌になりました。

 でも、その「死」を目の前にした直前も直前、死にたくないとか怖いとか、恐れを見せていて。

 

 全く関係ないんですが、何故か「恐れを」と入れたら「入谷の鬼子母神」と予測変換に出てきました。なんだお前。

 

 話を戻すと、むしろリアルだなぁ、って思って。って言うのも、よくネットの深淵を覗けばわりと簡単に朱音みたいに自傷癖がついてる人ってわんさかいると思うんですけど、そういう人たちって死の存在が距離感おかしくなってるなって思っていて。

 普通だったら、まぁ簡単に近寄らないし近寄りたくないと思うんですよ、近所の厄介な住人みたいな。

 それがその人たちは近寄っていくスリルに慣れてるから、どうしても気軽になってて、厄介に巻き込まれそうになることに慣れてるから近寄るのもなんとも思わないというか。

 厄介に巻き込まれそうだけど、まぁ今までそんなに酷く巻き込まれたことないし今回もなんとかなるでしょって近寄っちゃう。みたいな。

 

 それで、まぁあんまり文章にするのもいかがかなとは思うけど、慣れでつい近寄って、うっかり近寄りすぎて、それで死んでしまうことがあるって言うイメージがあって。

 

 で、そういう人たちもいつもの通りに切ったつもりで。切れば切るほど痛みが鈍くなるというか。繰り返すうちに感覚って麻痺するので。

 うっかり今までになく深く切っちゃって、それで死ぬ直前だってなったらパニックになって「死にたくない」って言うって聞いたことがあるんですね。

 

 それを踏まえて考えると、地面に叩きつけられる直前になって現実をハッキリ直視した朱音が、自分の状況に気がついてから漸く「死にたくない」ってなったのは、感覚の麻痺だったのかな。と。

 

 あとは、まだ読んだ内容を振り返り切れてないんですけど、話の中で嘘か本当か分からないとしても同級生に“同性同士で付き合っている”というようなことを言われた時の反応が、すごく時代の変化を感じました。

 私が高校生の時に読んだ小説の中に、一人息子だけど同性愛者で彼氏がいることをカミングアウトするという内容の本がありまして。

 その当時はそういったことを周りに言うことすら1冊のテーマになるようなことだったのに、今はこんなにもあっさりとそういう話が出てくるんだなと。

 平時の思考の中では同性での可能性が排除されてはいるけど、唐突にそういった“身近な同性愛”の情報が入ってきてもこんなにも字が割かれなくなったんだなとちょっと感心しました。

 これはたぶん作者の感性によるとも思うんですけど。

 

 

 他にもちょこちょこまとまらない考えは色々あるんですが、まとまらないのでやめておきます。

 

 久しぶりに小説を読んだら、なんだか色々な発見と感心と考えの違いがあってワクワクしました。

 あと、久しぶりに5時間ほど物事に没頭したので自分の集中力にびっくりしました。

 とりあえず、言いたいことがあったとしたら、私はたぶん物事をハッキリ言うギャルがめちゃくちゃに好きです。

 以上、ありがとうございました。