怠惰なヒト科ブログなるもの始めり

オタクが好き勝手騒ぐブログです。

風立ちぬ、いざ生きめやも。

 

 ちなみにタイトルの生きめやもの部分は堀辰雄の誤訳で、原文の「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」を正しく訳すと「風が立った、生きねばならない」という感じになるそうです。だから映画でのコピーが「生きねば。」なんですね。

 生きめやもだと「生きようか、いやどうして生きられようか」みたいな感じです。あの、なんか反語なのでそういうことなんだなぁ、って認識してもらえたら。

 

 ジブリの「風立ちぬ」が、めちゃくちゃ好きです。この前金曜ロードショーでやってましたよね。あれです、あれ。

 

 いや、あのね、分かるよ。分かる。好き嫌い分かれるよね。知ってる。嫌というほどに。

 

 でも、あの話って例えると贅沢を極めすぎておもてなしの場で出されたものがめちゃくちゃに美味しい水一杯だけだったみたいな話だと思うんですよ。

 

 

 語らせてください。

 

 

 あの映画はね、美しいところしか写していないんです。徹底して。

 本当にすごいと思う。作中で菜穂子が山へ帰った時に黒川夫人が「好きな人に自分の美しいところだけを見てもらいたかったのね」って言うんです。

 この映画も、本当に徹底して二郎の人生の美しかったところしか描いてないの。

 

 よく考えてみてください。

 ジブリですよ? あの、火垂るの墓を出したジブリ

 同じ第二次世界大戦の、もう終盤の、全く同じ時代を描いてるのに受ける印象、めちゃくちゃ違いませんか? いや、まぁ、監督は違うんですけども。

 でも、本当に描くテーマが違うだけで同じ時代をここまで印象が違うものに仕立て上げたその手腕すごくないですか???

 

 で、ですよ。どうして徹底して二郎の人生の美しかったところしか描いてないって言い切ったかと言うと、これも作中にあるんですが「君の10年はどうだ」ってカプローニさんから二郎が言われてるの、覚えてますか?

 カプローニさんが創造的人生は10年だっていうようなことを言っているんです。

 

 んで、二郎が入社5年目で設計主任に抜擢されたの、あれが大体史実だと1932年頃なんですけど、零戦の初陣が1941年って言われているんですね。まじで、本当にこのカプローニさんの台詞にキッチリ綺麗に詰まってるんです。本当に。綺麗。

 

 二郎の美しい夢であった飛行機と二郎の人生の美しかった部分だけめちゃくちゃ濃縮されてるんですよ。

 しかも本当に、美しさにこだわりにこだわってて、二郎が綺麗だって言ってた鯖の骨あるじゃないですか。あれ、上記の入社5年で設計主任に抜擢された件の試作機がテスト飛行中に墜落して軽井沢に行ったあと、菜穂子と心通わせて元気を取り戻して紙飛行機飛ばしているシーンでの美しい軌道で飛ぶところ、本当に鯖の骨を倣ったような軌道で、すごく綺麗なんですよ。

 

 

 つまり、何がいいたいかっていうと、風立ちぬはガチガチに美しさに固執した映画です。

 

 対比としてまた火垂るの墓を出すんですけど、火垂るの墓はただただ清太の体験を追っているから何を表現したいかっていう路線ではないんですよね。わざとらしさがなくて。だからこそめちゃくちゃメンタルにくるんですけど。

 でもって、風立ちぬは別に何を追っているっていう話ではないんですよ。別にどうして二郎が飛行機にのめり込んだとか言う飛行機の話でもなければ、避暑地での菜穂子との出会いが二郎にどういう影響を与えて二人はどうであったとか言う恋愛の話でもない。ただただ、二郎の人生の、創造的人生であった零戦を作るに至った経緯とその後でしかないんです。

 めちゃくちゃ贅沢じゃないですか? 本当に、美味しいけどそれだけの水。お腹は満たされないんですよ。正直言って。それだったら、全然火垂るの墓の、ご飯とお味噌汁と漬物だけみたいな、質素だけどなつかしさのある食事の方が断然お腹は満たされるし、それによる満足感もあるんです。

 本当に、めちゃくちゃ贅沢な娯楽だと思います。美しかったところだけを、美しさを追求して描いた作品です。

 

 

 ここまで書いてたらもう一度見返したくなってきたので、今日はここまでにしておきます。

 もし、気が向いたら見てみてください。

ストーリーに面白みは、正直ないかもしれません。でも、映画で重要視されるストーリーという主軸を捨ててまで徹した美しさを、どうか、よろしくお願いいたします。